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《序》
『複製技術時代の芸術作品』においてベンヤミンの定義するアウラを次のように要約できる。「芸術作品のオリジナルは<いま-ここ>的性質を持つがゆえに真正さを持つ。その真正さとは、その事物において、根源から伝承されうるものすべてを総括する概念であり、これにはこの事物が物質的に存続していることから、その歴史的証言力までが含まれる。この性質をアウラという概念で括るならば、それは空間と時間から織り成された不可思議な織物である」。このようなアウラという概念を提示し、ベンヤミンは芸術作品が技術的に複製可能となった時代においてはこのアウラなるものが衰退する事を明らかにしている。 確かに、近代に発達した複製技術の下で生まれた写真芸術は、機械によってオリジナルと寸分違わぬ作品を無限に作りだす事ができる。そして、それはベンヤミンが指摘しているように、オリジナルの絵画が持つような<いま-ここ>的性質を有していない。そして、それはもはやオリジナルとコピーという、真正さを基準にした事柄が無効になる事を意味している。ボードリヤールはこのようなオリジナルとコピーが融解して何が本物で何が偽者であるかわからないような世界のあり方をシミュラークルという概念で言い表そうとしたが、シミュラークル的な性質を有する物は、写真だけに限られない。ここでは現代におけるシミュラークル化した事柄を具体的に提示したうえで、それらの在り方とはどのようなものなのかという事を考えていきたい。さらに論点をはっきりさせておくならば、「シミューラクル化した都市を生きる私達の生活において、キッチュなものにアウラ的なものは宿るか。宿るとすればどのような形で達成されるか」という事を中心に考えていきたい。もっとも、キッチュとは「まがい物」の意味でも使われるが、本物と偽者が無効になる事を意味したシミュラークルという概念において真贋の区別は意味を持たないため、ここではキッチュを「俗悪なるもの」といった程度の意味で使っていきたい。また、(いま-ここ)的性質を持ち、歴史的証言力を有するという前提の下で成り立つ真正なものが帯びる性質といった意味でベンヤミンが使ったアウラという概念も、シミュラークルという概念の下では、まがい物が存在しない事と同様に真正さも存在しない事になるためアウラも成立しない事になってしまうが、真正であるか否かは後に検討していくものとして、ここでは「(いま-ここ)的性質を持ち、歴史的証言力を有するものが帯びる性質」といった意味にアウラの定義を限定しておきたい。 《廃墟に宿るダイナミクス》 軍艦島の通称で知られる長崎県の端島は19世紀に石炭の存在が発見され、1890年から三菱財閥の所有となった後、石炭採掘のため周囲を埋め立て、大正期以降には鉄筋コンクリート造の集合住宅群が建設された。人口が最盛期を迎えた1960年には5267人の人口がおり、人口密度は世界一を誇り東京特別区部の9倍以上に達した。また炭鉱施設・住宅のほか、学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。いわゆる典型的な産業都市である。1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行により衰退し、1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。全盛期である1960年代前半の写真に写っている鉄筋コンクリート造の集合住宅郡は入り組んだ廊下等はあるものの、いわゆる典型的な高層アパートであり、特筆すべき点はあまりなく、キッチュと言っても差し支えないほどのありふれた住宅である。ところが島が住民に捨てられ無人島として年月を経る毎にそこにある集合住宅郡が放つ空気は全く異なる様相を呈するようになる。軍艦島の変容の様子は写真集や資料で詳しく見ることができるが、閉山から30年以上経った今でも、軍艦島の集合住宅の廃墟郡はそのまま残されており、中には倒壊寸前の建物があるほど荒廃している。長年風雨に晒されたためかガラスは殆ど割れ、外壁が崩れ、鉄筋が飛び出し、建物内部にある金属は原型を留めていないほど錆が付着している。日常において目にする整備された建築物と比較するとその様子は静的というよりどちらかというと動的だ。写真から見ただけでそれらの廃墟郡を動かしている“荒廃”というダイナミクスを感じる事ができる。皮肉なようだが、荒廃によって建築物が“生”を宿しているようにすら見えるのだ。軍艦島では年々瓦礫の山が増えているそうだ。それは軍艦島が<いま-ここ>で動的に存在している事を意味してはいないだろうか。もちろん、それは死へのダイナミクスであるかもしれないが、“生きる”という事は日々死んでいく事と捉えられなくもないから、荒廃が持つダイナミクスは生への力であり、死への力だとも言える。ともあれ、キッチュなものとして生まれた建築郡がまさに荒廃というダイナミクスに支えられ、圧倒的な歴史的証言力を有しながら、<いま-ここ>で変貌を遂げている様子は、ベンヤミンが言うようなアウラが生成されていると言えないだろうか。そこには本来のキッチュな姿から転生を遂げ、語義通り新たな“original”として生き始めている建築物の姿がある。そういった意味でこの軍艦島の鉄筋コンクリート造の廃墟郡は、ますますシミュラークル化してきている現代の都市を考える上で示唆に富んだ存在である。軍艦島は露骨なまでに荒廃のダイナミクスを有しているからこそ、むしろ豊かな生の表情を得た。一方、東京では廃墟がすぐに取り壊されるように、現代都市では新陳代謝が活発である。それがゆえに建築物は画一的な表情をするようになる。もちろん建築物のデザインが画一的と言っているのではない。端的に問題提起するならば、現代都市において建築物は荒廃という死へのダイナミクスを許されていないからこそ、生のダイナミクスさえも希薄に見え、それゆえ画一的な表情に見えるのではないかということだ。この事を踏まえた上で次に塚本晋也のインタビューと映画をヒントに都市における我々人間の身体について考えていきたい。 《都市における身体》 身体は従来、場所という空間内部での具体的な事物との関係においてその現実性が確認されてきた。手を延ばして触ることのできる事物の現実性や足を運んで到達できる事物の連続性などを基にして、自己とは異なる他者や物、部屋や建築物、都市空間や環境空間との関係において、そこにつながっているかぎりにおいて確認されてきた。ところが現代に登場したヴァーチャルリアリティーの出現によって、この特定の身体性が揺らぎ始めている。CGを使った3D映像やシュミレーション技術の発達によって、身体は瞬時に特殊な空間に侵入できるようになってきた。このようなコンテクストが移り変わるような環境のもとでは身体は一意的に支えられるものではなくなり、確固不動の身体というものがもはや保てなくなっている状況になりつつある。映画監督、塚本晋也は初期の『鉄男』から中期の『バレットバレエ』にかけてそういった身体の危機をテーマに扱ってきた。塚本は『六月の蛇』を製作した後に、取材のインタビューで以下のように答えている。 “平たく言うと「肉体に戻りましょう」ということなんです。『東京フィスト』を作ったときは、肉体的なものがだんだん喪失してゆくようなイメージがありました。東京は電脳都市とかよく言われますけど、まさにそんな感覚で、コンクリートの蜂の巣みたいのがあって、そのなかに脳味噌だけが並んでいるような感じです。電気で複雑に交信しているんだけど、なんか肉体的なコミュニケーションがないという印象があったので、そんな肉体感が喪失してゆく恐怖みたいのを解放する映画を作りたかったんです。肉体感覚が喪失してゆくと、切実に生き死にを感じたりするのが弱まってゆきますよね。すぐそこでは戦争があって、違う国では人がバタバタと倒れているのに、平和すぎたり、過保護にされすぎていることによって、そういうものを見ないでいられる幸福やありがたみがわからなくなっている。実際に死体を見ていると恐いはずなんですけど、生き死にという切実なものに触れないでいると、 いつか死ぬという感覚も、妙に掴めないというか。『六月の蛇』では、東京に来ている人が、カチカチになっていく様を描いているんです。コンクリートの中で平和に暮らしているはずなんだけど、クリーンな所にいると、過剰にそのことを守ろうとして妙に潔癖症だったり、清潔感がありすぎて、ちょっとでも自然のものが入ってきたりして崩れてゆくと、気持ち悪いという強迫観念みたいなものを感じてしまう。平和で自由なはずなのに、機能的な生活にカッチリしすぎて、だんだんがんじがらめになってしまうという所から、いろいろ生じるのかなぁという気はします。僕が描いているのは、器があることを忘れてしまっている人達なのかもしれない。触ったり叩いたりという具体的な刺激を与えて、肉体を疎かにしている人に、肉があることを感じさせたり、覚醒させるということだと思うんです。” 塚本の言葉と作品をヒントにしつつ今まで論じてきた事に即して都市における身体を考えていくとするならば、塚本の危機感はヴァーチャルリアリティーの出現によってシミュラークル化した身体がキッチュなものになっている事に対する違和感に起因する事は彼の言葉からも明らかだ。そして上記のインタビューでは詳しく語られていないものの、キッチュな身体から彼の言う「肉体に戻る」を達成する試みが映画の中で為される。特に「東京フィスト」において、塚本晋也演じる主人公は背広にネクタイといったステレオタイプなサラリーマンの姿をする事で現代人のキッチュな身体の表象として描かれるが、ボクサーに恋人を奪われた事がきっかけで自らもボクシングを始め、徐々にそのボクシングによる“痛み”を通じて自らの肉体感覚を取り戻していく。また、恋人も全身にピアッシングをする事で身体感覚を取り戻そうとする。さらにこの恋人達は物語の終盤で顔の形が変形するほど殴り合う。執拗なまでにここで繰り返されている「“痛み“を通してキッチュな身体から真の身体を回復させる」というロジックは、先ほどのキッチュな建築物が荒廃のダイナミクスを通す事によってアウラを獲得するというロジックの方向性と全く同一のものである。いわばシミュラークル化した身体は、都市の建築がそうであるように、死ぬことも生きることもできないような表情をしていると言える。塚本はそういった“痛み”という身体の破壊を通じて逆説的に自己の回復を図ろうとしているのだ。さらに言い換えるならば、“痛み”という<いま-ここ>的な現象を通す事によって、自らに張り付いたキッチュなものとしての身体ではなく、その内部に眠るoriginalな歴史性を持つ身体への自覚を促そうとしているのだ。 《キッチュのメタモルフォーゼ》 ここで「シミューラクル化した都市を生きる私達の生活において、キッチュなものにアウラ的なものは宿るか。宿るとすればどのような形で達成されるか」という最初の問いに対する一つの答えが用意出来るように思う。つまりシミュークル化した都市において、荒廃や破壊、そして痛みや逸脱といった、いわば負のダイナミクスを通して出来た裂け目から<いま-ここ>的な要素と同時に歴史性にも邂逅できるのではないだろうか。もちろんそれはベンヤミンがいう意味での真正さを有していないかもしれない。何故ならシミューラクルで溢れる都市の元で生まれた建築物や身体は、そのどれもが生まれにおいて、もしくは生まれてすぐに社会という枠組みを通して、ありふれたキッチュなモノにならざるを得ないからだ。だがキッチュなものは軍艦島の廃墟郡や塚本晋也の映画における身体のように、時に負のダイナミクスを通じて<いま-ここ>的性質と、歴史的証言力を有するものに変貌を遂げる事がある。それはもはや生まれにおいて持っていたキッチュな枠組みを捨て去り、新たなoriginalなモノとして転生したと考えるのならば、それは一つの真正さ、少なくともアウラの一端に触れている存在だとは言えないだろうか。無論、繰り返すようだがアウラは真贋の区別がはっきりつける事ができた複製技術以前の芸術に対して特に有効だった概念であるし、シミュラークル化した社会の元では本物と偽者の区別をつけられないゆえにナンセンスだと思われるかもしれない。確かに、キッチュなものからもアウラが生成されるという主張はある種、“個性”といったものに対する幻想を抱く者と同様のナイーブさがあるかもしれない。もっとも“アイデンティティ”や“本当の身体"というのはポストモダンの現在においては容易に脱構築されうるものだし、特別な何かを求めてしまう人間のロマンティシズムは今や滑稽なものとなりつつさえある。では、すべてが相対化されうる今日において、世界はのっぺりとした平面のようなものなのだろうか。全てを俯瞰できる地点からこの世界を見ることができるのならば、あるいは世界はそのように見えるのかもしれない。しかし、にもかかわらず物事に意味を求めてしまうのが人間であるし、できればoriginalでありたいとする欲求は生きる事と隣り合わせであるようにすら思う。それゆえ廃墟の魅力や塚本の映画における身体の捉え方に潜むoriginalというものに対する希望は、都市が持つ同化圧力や均一性といったものに我々が対峙した時に利用できる思考のツール(もちろんそれすら一種の幻想ではあるのだが)になりうるかもしれない。
by quiz1260
| 2007-10-01 04:51
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